行田市郷土博物館(埼玉県行田市)公共施設・城

行田市郷土博物館(埼玉県行田市)公共施設・城

関東七名城に謳われた忍城は文明年間(1469~86年)の初め頃に築城され、上杉、北条氏との戦いにも落城せず、石田三成の水攻めにも耐えた、戦国の世を生き抜いた名城です。
忍城は明治維新の際壊されましたが、忍城本丸の跡地に往時の面影を再現した忍城址(おしじょうし)が整備されています。この事業に対し、「’93さいたま景観大賞」や「都市景観大賞」が授与されています。忍十万石の面影をしのばせる忍城址は、四季の花が咲きそろう水城公園とともに散策されることをお勧めします。また、忍城址内には郷土博物館が併設されています。

行田市郷土博物館(埼玉県行田市)公共施設・城

歴史
延徳元(1489)年、山内上杉氏配下の豪族、成田親泰が突然、太田道灌の縁戚で、扇谷上杉氏に属する忍大丞の館を襲い一族を滅ぼし、延徳二(1490)年に築城を開始し翌年完成したと伝えられる。連歌師の宗長は永正六(1509)年、成田下総守顕泰(親泰)の忍城に立ち寄っている。

天文二十一(1552)年、関東管領・山内上杉憲政が北条氏康に上州平井城を追われ越後へ逃れた後、天文二十二(1553)年に北条氏康が忍城を攻めたが陥ちなかった。永禄二(1559)年(永禄三年の誤りか)、長尾景虎(上杉謙信)が関東に出陣した際には、成田長泰は抵抗の構えを見せたが、謙信の軍が城下に無差別に放火したのを見て降伏、謙信に帰順した。

永禄四(1561)年の上杉謙信の小田原城攻めでは謙信の軍に加わり先鋒として小田原城を攻めたが陥落せず、帰途、鶴岡八幡宮での関東管領就任式で謙信に無礼を咎められ、忍城に退陣する。その後はふたたび北条氏に帰順し、天正二(1574)年には謙信に攻められるが持ちこたえて堅城ぶりを示した。

天正十八(1590)年の小田原の役では城主成田氏長は小田原城に籠城し、残った士卒・兵・農民ら三千が立て籠った。攻城の総大将・石田三成は主君豊富秀吉の忍城水攻めの命を受けて、延長14〜28kmにも及ぶ「石田堤」を築堤し城攻めを決行した。ところが、小田原城開城後も支城としてはただ一つ落城しなかったため、江戸時代以降の軍記物語等で忍城は水攻めにも屈しない「浮城」や「水城」として語り継がれることになる。

家康の関東入封後は、松平家忠が入城し、文禄元(1592)年には家康の四男・松平忠吉が十万石で入城し、慶長五(1600)年に尾張清洲城に転封となった。その後は松平伊豆守信綱、阿部豊後守忠秋らが入城、元禄十四(1701)年阿部正武の時、幕府は忍城の三重櫓・二重櫓および帯郭の新たな造営を許可した。文政六(1823)年、松平下総守忠堯が入城、四代の後に廃藩置県を迎え廃城となった。


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